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熊野本宮大社・熊野那智大社と共にユネスコ世界遺産に登録されている熊野速玉大社は熊野三山の一つとして熊野信仰の拠点のひとつでもあり、主祭神は熊野速玉大神・熊野夫須美大神。境内には国宝「古神宝類」をはじめ、多くの坐像が収められています。また、平重盛が植えたと伝えられる「梛の大樹」は国の天然記念物にも指定されており、今もなお多くの参拝者を出迎えてくれます。また毎年10月の例大祭には古くから続く御船漕ぎ競争が熊野川で行われています。

熊野速玉大社の元宮である神倉神社は、神倉山の中腹にあり、御神体である「ゴトビキ岩」と言われる大きな岩の所に建てられている神社です。古くは神武東征の頃から日本書紀に記されている所でもあり、神社へ登る538段の石段は源頼朝が寄進したものでもあります。毎年ここ神倉神社では2月6日に御燈祭りが行われ、角界の著名人をはじめ約2000人の昇り子によって松明に神火が燈されます。またその光景は新宮節の一節に
「御燈祭りは男の祭り、山は火の瀧、下り龍」と唄われる程です。

熊野速玉大社の直ぐ脇に、東京都文京区関口町にあった文豪・佐藤春夫邸が佐藤春夫記念館として移築されています。当時のモダンな雰囲気を味わう事のできる館内には佐藤春夫本人が生前使用していた愛用の品や「わんぱく時代」の原稿、1960年(昭和35年)秋の叙勲で受章した文化勲章等も展示されています。

JR新宮駅から徒歩五分の所に、文化学院(東京都千代田区)創設者であり建築家の西村伊作邸があります。邸宅は大正時代の建築当時のものが殆ど残されており、現在は国の登録有形文化財に指定されています。邸宅は当時の文化人とも縁があり、与謝野鉄幹・晶子夫妻や石井伯亭なども度々訪れた場所です。

秦の始皇帝の使いにより「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」とされ、「不老不死の薬」を求めて3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って東方の海に出た徐福がたどり着いたここ新宮では、現在でも不老不死の薬が存在しています。JR新宮駅にほど近い徐福公園には徐福の墓があり、多くの観光客で賑わっています。


新宮市あるユネスコ世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」である熊野古道小辺路・中辺路・大雲取越えと共に「川の参詣道」として世界遺産に登録されている「熊野川」では、古くより交通として利用されてきた三段帆の舟や伝馬船に乗って熊野川を下る体験をする事ができます。この文化自然体験である川舟下りでは、語り部さんと共に熊野古道の歴史についてのお話を聞く事ができる約90分の川下り体験です。

江戸時代の初期より熊野地方で盛んに行われていた捕鯨のカタチを踊りにした「捕鯨踊り」が新宮市三輪崎に今もなお伝承されています。この踊りは二つの踊りから成り、鯨を網で囲う模様を踊りにした「殿中踊り」と、鯨をモリで突く模様を踊りにした「綾踊り」とがあります。この二つの踊りは総称「三輪崎の鯨踊」として和歌山県無芸民俗文化財に指定されています。毎年9月の三輪崎八幡神社例大祭にて披露されています。

新宮市の山間に高田と呼ばれる所があり、徐福伝説でも有名な天台烏薬の郷として、現在もその栽培が行われています。高田にはその天台烏薬を利用した湯や乳白色の美人湯などがある雲取温泉や自然プールもあり、市内の中心地からも近い隠れオアシス的な場所です。

 

 
【さとう はるお】(1892〜1964) 
明治25年、新宮市に生まれる。小説『田園の憂鬱』、誌『殉情詩集』で文壇での地位を確立する。芸術院会員、文化勲章を受章。
【ひがし くめ】(1877〜1969)
明治10年、新宮市に生まれる。作詞家として作曲家・滝廉太郎とのコンビで「鳩ぽっぽ」「お正月」などの口語唱歌を世に送り出す。
     

 
【にしむら いさく】(1884〜1963) 
明治17年、新宮市に生まれる。大正10年、東京駿河台に「文化学院」を創設。芸術家・建築家としても活躍し、多くの建築作品を手がける。
【むらい まさなり】(1905〜1999)
明治38年、岐阜県大垣市に生まれ、少年期を新宮で過ごす。
わが国の抽象絵画の先駆けの一人として国内外で活躍する。
     

   
【なかがみ けんじ】(1946〜1992) 
昭和21年、新宮市に生まれる。芥川賞受賞の『岬』をはじめ、生まれ故郷の熊野を題材にした重厚な文学作品を多数著す。